散歩するといろんな発見がある。
みなさまは、「無意識的な散歩」を、あえて意識してやったことがあるだろうか。
言葉にすると妙な感じがするが、要するに「何も決めずに、ただ歩く」というだけの話である。だがこれを、ちゃんと“意識して”やると、途端にただの移動はちょっとした実験に変わる。
現代人はとかく、歩くことに意味を与えすぎている。どこへ行くのか、何をするのか、どれくらいで着くのか。すべてが目的と効率に支配されている。だからこそ、そこから一度降りてみる。
目的地を決めない。
これが思っている以上に難しい。気づけば脳は「とりあえず駅まで行こう」とか「この先にカフェがあったはず」とか、勝手にゴールを設定し始める。そのたびに、「いや違う、今日はそうじゃない」と軌道修正する。
おすすめは、「なんとなく気になる方へ曲がる」というルールだけを自分に課すことだ。信号を渡るかどうかも、その時の気分。川があれば、とりあえず下ってみる。坂があれば、登る理由はないけど登ってみる。
意味を求めちゃいけない。
ここが肝だ。意味を探し始めた瞬間、この散歩は“普通の行動”に戻ってしまう。何も得られなくてもいいし、むしろ何も得られないほうが正しいくらいだ。
ただし、皮肉なことに、何も求めていないときに限って、妙な発見は向こうからやってくる。
たとえば、街ごとの「温度差」。
同じ時間帯でも、妙に活気のあるエリアと、理由もなく静まり返っているエリアがある。人の歩く速度、会話の音量、コンビニ前にたむろする人数まで、すべてが微妙に違う。
「この街、なんか明るいな」と思った数分後に、「ここ、ちょっと怖いな」と感じる場所に入る。その連続が、じわじわ効いてくる。
そして、ラーメン屋。
これはもう、運試しだ。事前に調べるのは野暮である。目に入った店に、そのまま入る。
やけに自信満々な外観なのに味が普通、というパターンもあれば、「この店ほんとに営業してるのか?」みたいな佇まいなのに、妙に完成度の高い一杯が出てくることもある。
ただ、そういうノイズも含めて、この散歩は成立している。
歩き続けると、だんだんと身体の感覚が変わってくる。最初の数時間は「疲れたな」とか「まだこれくらいか」とか、やたらと現在地を確認してしまうのだが、あるラインを越えると、妙にフラットになる。
距離の感覚が薄れて、「どこにいるか」よりも「今どう歩いているか」のほうが重要になってくる。
結果として、6時間も歩けば40km前後にはなる。数字にすると大したことをしているように見えるが、やっていることは終始「なんとなく歩いている」だけだ。

だからこそ、余計に不思議なのだ。
もちろん、この行為に明確なリターンはない。人生が変わるわけでもないし、誰かに褒められるわけでもない。
だが、「確かに自分はあの時間を歩いていた」という、妙に輪郭のある記憶だけは残る。
最後に、実務的なアドバイスをふたつ。
ひとつめ。翌日に仕事がある日は避けたほうがいい。足が終わる。それも、翌朝目が覚めた瞬間に動かさずともやばいと思うレベルで。
ふたつめ。数十km歩いたあとに食べる松屋の牛めしは、ちょっとした宗教体験に近い。普段は気にも留めない味が、異様な説得力をもって迫ってくる。
意味はない。オチもない。
だが、なぜかもう一度やりたくなる。
そういう種類の行為が、この世には確かにある。
ではまた。